Masuk白く弾けた世界の中で、私はしばらく息の仕方を忘れていた。
首筋に触れたはずの刃の冷たさは、どこにもなかった。大聖堂の鐘も、群衆の祈りも、香炉の苦い匂いも、すべてが遠い水底へ沈んでいく。身体は処刑台の湿った木板に押しつけられていたはずなのに、今は浮いているのか、落ちているのかも分からない。ただ、最後に喉の奥で握りしめた言葉だけが、白い光の中で消えずに残っていた。
その熱が胸の底でかすかに動いた瞬間、心臓が強く跳ねた。
喉に詰まっていた空気が急に戻り、私は水から引き上げられたように息を吸った。肺が痛むほど空気を求め、指先が薄い布を握りしめる。背中には汗が滲み、寝衣の内側を冷たく濡らしていた。私は荒い呼吸のまま目を開け、まず、自分がまだ暗闇の中にいないことを知った。
見えたのは、処刑台ではなかった。
淡い金糸の刺繍が入った天蓋が、朝の光を受けて静かに揺れている。白い薄布の向こうでは窓辺のカーテンが風を含み、磨かれた床に柔らかな影を落としていた。寝台の脇には白磁の水差しが置かれ、銀の受け皿の縁に細い光が留まっている。見慣れた壁紙、母の形見の小さな鏡、刺繍途中のまま籠に入れられたハンカチ。どれも、私の部屋にあるものだった。
ステラート侯爵邸の寝室に、私はいた。
けれど、その事実はすぐには身体に入ってこなかった。処刑台の木板の湿り気がまだ背中にある気がした。両手首には縄が食い込み、首筋には朝の冷たい空気が触れているはずだった。私は震える手を首へ伸ばし、喉元から首筋へ何度も指を滑らせた。肌は繋がっている。傷も、血も、刃の跡もない。次に手首を見れば、そこにも縄の痕はなく、ただシーツを強く掴みすぎたせいで、手のひらに浅い痛みだけが残っていた。
「私……処刑された、はずじゃ……」
掠れた声が寝室に落ちた途端、首筋が冷えた。
白と金の祭服。聖印を掲げる助祭たち。香炉の煙。石畳に集まった人々のざわめき。途切れ途切れだったものが、目を閉じても消えないほど近くへ戻ってくる。セドリックは黒い柵の向こうに立っていた。灰色の瞳が一度だけ私を見て、すぐに逸らされる。その瞬間の冷たさを思い出しただけで、喉の奥が詰まった。
指先で首筋を押さえる。傷はない。血もない。それなのに、処刑人の靴音が湿った木板を鳴らす音だけは、まだ耳の奥に残っていた。
夢ではない。
そう思った瞬間、額の奥が鈍く痛んだ。処刑台の朝とは別の景色が、隙間から入り込むように重なってくる。雨に濡れた舗道、夜でも明るい街、紙の本の匂い、薄い画面に並ぶ文字。どれも知らないはずなのに、懐かしさだけが先に胸を押した。
遠い日本という国で生きていた私は、今とは違う言葉で話し、違う服を着て、違う名で呼ばれていた。侯爵邸の朝の光に、白く冷えた部屋の記憶が重なる。消毒液に似た匂い。冷たい台に横たわる死者の身体。記録紙へ所見を書き留める自分の手。細部はまだ滲んでいるのに、科学捜査官として死者と証拠に向き合っていたことだけは、なぜか疑えなかった。
乾いた血の色や、傷の向き、衣服に残る細かな繊維、毒が残すわずかな痕跡。そんなものの見方が、祈りの言葉を覚えてきた私の中へ入り込んでくる。怖かった。知らないはずの知識が、処刑台の記憶の隙間を埋めるように広がって、私の輪郭を少しずつ変えていく。
日本で読んだ本の中には、死んだ人間が過去へ戻る話があった。別の世界で生まれ、前の人生の記憶を持ったまま生きる話もあった。紙の上では都合のよい作り話だったものが、今は首筋の冷たさと、乱れた呼吸と、汗で湿った寝衣を伴って、私の身に起きている。
私は寝台の縁に手をつき、ゆっくり足を下ろした。床の冷たさが足裏から伝わり、膝が小さく揺れる。急に強くなれたわけではない。手首に縄がないことを何度確かめても、指先の震えは止まらなかった。
それでも、ここが処刑台ではないことだけは確かめなければならなかった。
窓辺の薄布は朝風で揺れ、白磁の水差しはまだ手つかずのまま置かれている。暖炉には昨夜の灰が静かに残り、机の上には封の切られた招待状と、返事を書きかけた便箋があった。その横に置かれた月暦を見た瞬間、私は息を詰めた。
震える指で紙面を押さえ、今日の日付を探す。数字を見つけてからも、すぐには信じられず、何度も同じ場所を見直した。
神判の日より、ひと月前だった。
まだ、すべてが始まる前の朝だった。私の名は罪人として呼ばれておらず、処刑台へ続く道は、今はまだ静かに見えた。
月暦の横に置かれた招待状と便箋を見た時、記憶が静かに動いた。淡い封蝋、白百合の庭、午後の茶席。前の私は、この日をよく覚えている。セドリックは何事もなかったように訪ねてきて、婚約式の打ち合わせをし、私の好きな菓子を覚えていたと穏やかに微笑んだ。私はその優しさを疑わなかった。幼い頃から知っている彼が、私を傷つけるはずがないと思っていた。その穏やかな午後から、やがて告発と審問と神判、そして処刑台へ続く道が始まっていたことなど、何も知らずに。
指先が便箋の上で止まった。紙越しに、前の私が何も知らずに迎えた午後の気配が戻ってくる。思い出すだけで胸の奥が冷え、呼吸が浅くなった。私は便箋から手を離し、逃げるように顔を上げる。
鏡の中に、私がいた。
銀の髪は寝乱れて肩に落ち、菫色の瞳はまだ恐怖を残している。白い肌は夜の汗で薄く濡れ、細い腰に対して、胸元の線は寝衣の上からでもはっきり分かった。社交界で向けられていた視線の意味を、前の私は深く考えようとしなかった。けれど、遠い日本で生きていた記憶が戻った今なら、その視線が単なる礼儀や称賛だけではなかったことも分かってしまう。
自分の身体なのに、少しだけ知らないもののように見えた。令嬢として整えられた美しさと、女として見られる身体。そのどちらも私のものなのだと理解した瞬間、喉の奥に残っていた震えとは違う熱が、ほんのわずかに頬へ上った。
それでも、鏡の中の目は伏せられていなかった。
あの処刑台へ、同じ道を歩いて戻るつもりはない。
私は乱れた髪を指でそっと払い、震えを隠すように息を整えた。
扉の外で、小さな足音が止まった。侍女はいつも、朝の支度を邪魔しないよう戸の前で一呼吸置いてから叩く。その変わらない間合いに、私はかすかな眩暈を覚えた。
控えめに戸が叩かれる。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「入って」
扉が開き、侍女が一礼した。朝の光が廊下から細く差し込み、彼女のエプロンの白を明るく浮かせる。侍女は私の顔色に気づいたのか、わずかに目を見開いた。
「お加減が優れませんか」
「大丈夫よ」
喉の奥はまだ強張っていたが、声は崩れなかった。侍女は案じるように私を見ていたが、すぐに視線を伏せ、銀の盆を胸元に抱えたまま姿勢を正した。
「お嬢様。セドリック様がお見えです」
「事故の三日後だ」 アウルが机へ置いた紹介状の控えには、見覚えのない商会の印影まで写し取られていた。 窓から差し込む冬の光は弱く、書斎の奥までは届いていない。机の上だけが燭台に照らされ、紙に残された署名と印の輪郭がはっきり見えた。 アウルは、使用人を周旋する者の帳面と紹介状の控えを辿っていた。伯爵家へ入った新しい従者は、伯爵が階段から落ちた三日後、「先代の頃からヴェルネ家と縁があった商会」の紹介を受けて雇われていた。「怪我をした当主の家なら、人手が増えても不自然じゃない」 アウルは紹介状の名義を指先で示した。「家令の補佐を任せられる者だと書いてある。ただし、この商会は八年前に畳まれていた」 私は控えへ目を落とした。 署名は整い、印影も一見しただけでは偽物と分からない。けれど、名義に使われた商会はすでになく、署名したはずの人物へ辿り着く手がかりも残っていなかった。 当主が倒れ、屋敷中が混乱していた時期だった。人手を必要としていた伯爵家に、古い縁を名乗る紹介状が届けば、細部まで確かめる余裕はなかったのかもしれない。 怪我人を抱えた家へ、もっともらしい書類と共に人を送り込む。辿ろうとしても、使われた名義から先へは進めないようにしてある。 脅迫状や毒の絵の指示書と、よく似た手配だった。 あの男は事故の三日後に偽の紹介状で入り、伯爵の居室へ続く廊下を見張っていた。 私は紙から顔を上げた。「偶然とは考えにくいわ。監視のために送り込まれた可能性が高いと思う」「俺も同じ考えだ」 アウルは紹介状を畳まなかった。「けど、今ここで捕らえるのは早い」 伯爵家の中には、父君の手紙を樫のうろへ運んだ者がいる。その人物が今も伯爵を守ろうとしているなら、監視役を突然消すことで疑いが向くかもしれない。 従者が戻らなければ、送り込んだ側に異変を悟られるおそれもある。最初に危険にさらされるのは、伯爵だった。 調べるべきなのは、あの従者の名ではない。誰から指示を受け、どこへ報告しているのかだった。 扉が静かに叩かれた。 入ってきたエレーヌの外套から、冷たい空気が流れ込む。裾には市場近くの泥が薄くついていた。「数日、出入りを確認しました」 日ごとに服と立つ場所を変え、伯爵家へ出入りする商人や使用人に紛れて見張ったという。 あの従者は、三日から四日おきに屋敷
ファロー子爵家の門前で馬車が止まると、セシル様は父君の手紙を胸元へ引き寄せた。 泣いたあとの目元は赤く、手紙を押さえる指にも、まだ強く力が入っていた。それでも、伯爵家を出た時のように俯いてはいなかった。「今夜から、目立たない者を屋敷の周囲に置く」 アウルが窓の外へ目を向ける。道中、一定の距離を保って馬車についてきた男が、門脇の暗がりで小さく頭を下げた。「子爵家の暮らしは変えなくていい。ただ、しばらく一人では出歩かないで」「分かりました」 セシル様は頷いた。 父君を脅した者たちは、次は娘だと言った。恐怖を与えるためだけの言葉だったとしても、無視はできない。伯爵を階段から落とした者が、今も屋敷の内外を自由に動けるのなら、セシル様の居場所も知られていると考えるべきだった。 扉が開き、子爵家の従者が足台を置いた。 降りる前に、セシル様は私たちを振り返った。「父は、生きて、私に伝えてくれました」 手紙を押さえる指がわずかに震えた。「もう、何も知らないふりはできません。どうか、お父様を助けてください」 私は彼女の手を取った。冷えた手が、私の手を強く握り返す。「お父様を助けるために、私たちも止まりません」 すぐに伯爵家へ踏み込むことはできない。監視している者も、手紙を樫へ運んだ者も、まだ分かっていなかった。焦って動けば、伯爵をさらに危険な場所へ追い込むかもしれない。 セシル様も、それを分かっているのだろう。唇を一度引き結んでから、彼女は頷いた。 門の内側へ歩いていく背中を見送り、扉が閉まるまで、私たちはその場を離れなかった。 離宮へ戻った頃には、夜も深くなっていた。 書斎には火が残されていたが、広い室内を暖めるには足りず、窓辺には白い曇りが張りついている。エレーヌが新しい薪を足す。その手の甲には、樫のうろへ腕を差し入れた時についた細い擦り傷が残っていた。「エレーヌ、その手は大丈夫?」「この程度なら何ともありません」 いつもと変わらない返事だったが、袖口を引き下ろす動きはいつもより少し慎重だった。 外套を脱いでも、私の指先はまだ冷えたままだった。椅子へ向かおうとすると、アウルが私の手を取る。 冷え切っているのを確かめるように指を包み、そのまま暖炉に近い席へ導いた。「先に温まって」「あなたも冷えているでしょう」「俺は君ほどじゃ
膝の上の包みに指をかけたまま、セシル様は動けずにいた。 アウルが低く言った。「ここで確かめた方がいい。筆跡が分かるのは、あなただ」 セシル様は頷き、油紙の折り目をほどいた。冷えて固くなった紙が小さく鳴る。中から出てきたのは、一通の手紙と、さらに別に折り畳まれた紙が一枚だった。 セシル様の目が、手紙の宛名で止まった。「……お父様の字です」 声の終わりがかすかに震えた。「間違いありません。月に一度、ずっと見てきた字です。少し震えていますけれど……」 彼女はそこで言葉を切り、封を開いた。手紙の紙は、伯爵家で普段使うような厚い便箋ではなかった。急いで用意したものなのか、折り目も少し歪んでいる。 私は手紙を覗き込まなかった。セシル様が読み進める間、彼女の指と顔色を見ていた。「日付が……」 セシル様が最初に口にしたのは、文面ではなく日付だった。「事故のあとです。お怪我をされた、あとの……」 私は、屋敷で見た伯爵の姿を思い返した。杖に体重を預け、片足をかばい、家令の腕を借りてようやく向きを変えた人。あの体で、冬の庭の奥にある樫まで、一人で行けたはずがない。 つまり、この手紙を樫まで運んだ誰かが、屋敷の中にいる。伯爵の手足になれる者が、少なくとも一人。 私は、玄関で深く頭を下げた家令の姿を思い浮かべた。確かめようはない。けれど、あの屋敷はまだ、伯爵が一人で閉じ込められただけの箱ではないのかもしれなかった。 セシル様の視線が、文字を追って動く。途中で一度止まり、同じところを読み返した。「名を明かさぬ者が、幾度もこの家を訪れた。私に、中立の席を降りろと言った」 セシル様は震える声で、数行だけを声にした。「私は断った。ヴェルネの名を、そのために使うつもりはなかった」 馬車の中で、誰も動かなかった。 手紙には、伯爵が何度も圧力を受けていたこと
伯爵家の裏手から少し離れた道に馬車を止めた頃には、夜はいっそう冷え込んでいた。 御者台の灯りは布で覆い、車内の小さなランプも芯を絞っている。窓の端には薄く霜がつき、吐いた息が白くなって、すぐに消えた。正面から訪ねる口実は、昼のうちに失っていた。今夜ここにいることを、伯爵家の誰かに知られるわけにはいかなかった。 セシル様は私の向かいに座り、膝の上の書き板を両手で押さえていた。そこには、昼間の馬車の中で描いた庭の間取りが残っている。屋敷の裏手、低い生垣、古い温室跡、庭の奥の大きな樫。揺れる馬車の中で描かれた線はところどころ歪んでいたが、樫だけははっきり丸で囲まれていた。 エレーヌは外套を羽織り、侍女服の白い襟元を隠していた。髪もいつもより低くまとめ、夜の中で目立つものをできるだけ減らしている。彼女は書き板を一度だけ見て、すぐにセシル様へ返した。「覚えました」 二度目は求めなかった。 アウルは窓の外を確かめてから、声を落とした。「戻る場所はここだ。道の向こうに見張りを一人置いている。異変の合図がない限り、俺たちはここで待つ。約束の時刻を過ぎても戻らなければ、こちらから動く。——戻る時は、小枝を二度、間を置いてもう一度。それが合図だ」 それ以上は説明しなかった。セシル様が聞けば余計に不安になると判断したのだろう。アウルは、いつもの冗談を一つも挟まなかった。 エレーヌが扉に手をかける前に、私は思わず呼び止めた。「エレーヌ」 彼女が振り返る。「無理はしないで」「はい、お嬢様」 返事は短かった。けれど、彼女は一度だけ、私へまっすぐ目を向けた。「必ず戻ります」 扉が細く開き、冷たい空気が車内へ入り込んだ。エレーヌは音を立てずに外へ出ると、すぐに闇の中へ紛れていった。黒い外套の裾が一度だけ見え、それも屋敷へ続く木立の影に消えた。 扉が閉まると、馬車の中に残った灯りがひどく小さく見えた。 待っている間は、かすかな物音ばかりが大きく聞こえた。 遠くで教会の鐘
馬車に戻ると、しばらく誰も話さなかった。 車輪が動き出し、屋敷の重い門が後ろへ遠ざかっていく。窓の外では、冬の庭がすぐに石壁に隠れた。セシル様は背筋を伸ばして座っていたが、膝の上の手が震えている。必死に止めようとしているのが、手袋の縫い目の動きで分かった。「申し訳ありません。せっかくお力添えいただいたのに、何も……」「何も、ではありません」 私がそう言うと、セシル様は顔を上げた。泣いてはいなかった。けれど、屋敷へ向かう時よりも、ずっとこらえているように見えた。「父に、あんなふうに言われたのは初めてです」 彼女の声は細くなった。背筋を伸ばしたまま言うので、かえって膝の上の手の震えが目立った。「嫁いだ身だから、この家のことは忘れろと……父は、本当に私を遠ざけたいのでしょうか」 すぐに否定したかった。けれど、私は見ていないことを断言できない。伯爵の心を知っているわけではない。ただ、見たものはいくつかある。 私は膝の上で指をそろえ、言葉を選んだ。「伯爵は、『帰りなさい』と言う前に、廊下の奥を見ました」 セシル様が瞬きをした。「廊下の奥……?」「見慣れない従者がいた場所です。セシル様が家にいらした頃には、いなかった方ですね」「はい。あの者は、私は知りません」 アウルは黙って聞いていた。私が話すのを遮らない。けれど、こちらの言葉を量るように、窓の外から一度だけ私へ視線を戻した。「それから、伯爵の最後の言葉です。『この家のことは忘れなさい』だけなら、突き放す言葉として分かります。けれど、そのあとに庭の樫のことを言いました」 セシル様の手が止まった。「庭の樫……」「お父様は、手紙に庭の木のことをよく書かれていましたか」「ええ。いつもです。庭の木や、季節の菓子のことばかりで……」 そこまで言って、セシル様は口
「帰りなさい」 ヴェルネ伯爵の言葉に、客間はしんと静まり返った。 大きな声ではなかった。けれど、セシル様の足はその場で止まった。伸ばしかけた手は宙で行き場を失い、父の名を呼ぼうとした唇だけが、かすかに開いたままだった。 伯爵は杖に体重を預け、扉の前に立っていた。顔色は悪く、片足をかばう姿勢には痛みが残っている。それでも、こちらを見る目ははっきりしていた。少なくとも、意識が曖昧な人の目ではない。「お父様……せめて、お加減だけでも。お手紙もなく、家令からのお返事ばかりで、私は」「帰りなさいと言った」 伯爵の声は先ほどより硬かった。セシル様が息を詰める。家令は伯爵のそばで手を差し出しかけたが、触れてよいのか迷うように指を止めた。 私は伯爵の顔だけでなく、視線の動きも見ていた。 言葉は娘へ向いている。けれど、伯爵は時折、廊下の奥を気にしていた。あの見慣れない従者が立っていた方角だ。従者は近づいてこない。ただ、廊下の奥にいて、こちらを見ているのか、伯爵の背を見ているのか、薄暗がりでははっきりしなかった。 あの従者は、伯爵家のお仕着せを着ていた。けれど、袖の丈が合っていない。仕立て直す間もなく着せられた服に見えた。そして、この家の使用人は、誰一人として彼に目を向けない。目を向けないように動いている、と言った方が近い。あの従者の周りだけ、人の動きが避けて流れていた。 セシル様がもう一歩だけ前へ出ようとした。「お父様、私はただ、お顔を見たかっただけです。どうして……」 最後まで言えなかった。どうして会ってくださらないのか。どうして手紙が途絶えたのか。訊きたいことが多すぎて、どれから口にしても届かない気がしているのだと思う。 伯爵は答えなかった。杖の向きを変え、家令の腕を借りるようにして身体を少し横へ向ける。その動きだけでも痛むのか、口元がわずかにこわばった。 そのまま奥へ戻るのだと思った時、伯爵は振り返らずに言った。「……嫁いだ身だ。この家のことは、もう忘れなさい」 セシル様の肩が小さく震えた。 伯爵は少し間を置いた。廊下に立つ従者の影が、ほんのわずか動いたように見えた。暖炉の火が弱く鳴り、客間の中の誰も言葉を挟まない。「庭の樫のことも、手紙に書くことはない」 その最後の一言だけ、硬さが少し薄れた。娘を突き放すための言葉としては、妙に具体的だ
モンフォール伯爵家の夜会まで、残された日数は少ない。 私はステラート侯爵家の紋章を隠すため、簡素な外套のフードを深く被り、侍女には古い礼拝堂へ祈りに行くとだけ告げて邸を出た。祈りに縋るふりをして、向かった先は大聖堂ではない。市場の奥、医師や薬師、時には貴族家の執事までが足を運ぶ薬種店だった。 真実だけを抱えて処刑台へ向かった前の私は、誰にも信じてもらえなかった。だから今度は、祈る前に確かめる。ロザリー夫人の死が本当に毒によるものだったのなら、その痕跡は人の身体にも、器にも、布にも残るはずだった。 馬車を市場の手前で降りると、石畳には朝市の水気がまだ残っていた。野菜籠を抱えた女たちの声、
セドリック様がお見えです、と告げられた瞬間、首筋に消えたはずの刃の冷たさが戻った気がした。「支度をお願い。あまり待たせては失礼だわ」 声は崩れなかった。侍女が髪に櫛を通し、薄紫のドレスの襟元を整えていく間、私は鏡の中の自分を見ていた。真珠の飾りが控えめに光り、銀の髪は少しずつ令嬢らしく結われていく。前の私は、この装いを選びながら、婚約者に少しでも綺麗だと思われたいと願っていた。何も知らず、何も疑わず、ただ差し出された優しさを信じていた。 最後に髪飾りの金具が小さく鳴った。鏡の中には、前の人生と同じ顔をした私がいる。けれど、その目だけはもう、同じではなかった。 小さな応接室の扉を開ける
あと数えるほどの時間で、私の首は石畳に落ちる。誰ひとり殺してなどいないのに。 大聖堂の鐘が朝を割って鳴った。膝をつかされた処刑台の板から、冷えた震えが体の芯まで這い上がってくる。その震えが恐怖なのか寒さなのか、もう自分でも分からなかった。 夜の湿り気を残した石畳には、早くから集まった人々の靴跡が黒く重なっていた。広場を囲む窓からは何人もの顔が覗き、祈りの声に混じって、私の名が低く囁かれる。ステラート侯爵令嬢、殺人犯、神に見捨てられた女。その言葉はざわめきに溶けても、耳の奥に冷たく残った。 両手首は後ろで縛られていた。縄の下で指先は冷えきり、動かそうとしても爪の先がかすかに震えるだけだっ
薬種店から戻ったあとも、黒ずんだ紫の根の色は、目の裏に残り続けていた。 夜になっても眠る気にはなれず、私は自室の机に向かっていた。燭台の炎は窓から忍び込む夜風に細く揺れ、机の上に置いた紙の端へ影を落としている。羽根ペンを取る指には、まだ薬種店の匂いが残っている気がした。私はロザリー夫人の名と夜会の日付を書きつけたあと、前の人生で見た光景を、ひとつずつ紙の上へ戻していった。 前の私は、恐怖で何も見ていなかったと思っていた。けれど、思い出そうとすれば、細部は消えずに残っている。夜会の広間には磨かれた床に燭台の光が揺れ、甘い酒と香水の匂いが混ざっていた。ロザリー夫人は白と薄金のドレスをまとい、